期待と回想

明日、明後日の予定を考えると、今日行かないと見ることができない映画がある(公開が明後日まで)ので、朝むっくり起きて、といっても9時なんだけど、家を出る。今日のお目当ては、モーニングショーで公開されている「明日/Tomorrow」。1988年(だったと思う)と前の作品だけど、「美しい夏キリシマ」を見てよかったので、その同じ監督が撮った映画をやるなら見たく思ったというわけだ。
舞台は1945年8月8日の長崎。その一日にそこにいた人におこったことが淡々と描かれる。もちろん戦争の影がささないわけじゃあないのだけれど、出会いや別れ、結婚や出産といった、人が暮らしていれば起こるだろうことを同じように登場人物が経験する。登場人物の誰もが頭の片すみでは、たとえば「空襲があったら」なんて思っているものの、今日と同じ明日が来るって考えている。ただ、その映画を見ている何十年が後の世界に生きている私たちは登場人物に明日はないことを知っている、だから登場人物のあたりまえな振る舞いやセリフが切ない、そんな構図だ。何となく信じてる明日が来ないこと、あるいは悪い意味で全く違う明日が来てしまうこと、そんなことがあったかなって考えてみる。齢31にしてうつ病になったのは、そんな経験か。でも、この映画の中で起こっていることのほうが私に起こったらきついな、と思う。そんなこと、たとえば核兵器や戦争、暴力や死、別れや喪失etc、はいつでも起こりうる。だからその時どうするか、その前にどうするか。いやな時代になりつつあるという予感があるだけに、重たい気持ちになる。ちょっぴり覚悟がいるんだ。そうだ、映画の上映途中にフィルムが中断したことを思い出した。映画館の職員さんが「フィルムが古いので不具合が生じてしまってすいません」と謝っていた。16年前のフィルムが古くなる。まして60年前の出来事なんて、気をつけていないとすぐ古びてしまう。ちょっとしたアクシデントだったけど、そんなことを考えた。
映画が終わったのが昼過ぎ。何となくまっすぐに帰らずに、芸もなくミスドでおかわりコーヒーを飲みながら、新聞2誌と思想の科学のバックナンバーを読む。特集は「放浪の事典(1994.12月号)」。自分の存在自体が放浪だと言ってるかのような徐京植。破綻しかかっている現代文明を前に、地球のすみずみを回って手持ちのカードを増やそうといい、めおとで旅する鶴見良行。ほかにもいっぱい、私にとって魅力的な人たちが紹介されている。私が放浪に憧れていることにあらためて気づく。大学の頃、「ボーダー(原作:狩撫麻礼、画:たなか亜希夫)」の主人公たちが、それぞれ東西からユーラシア大陸の横断を試みて出会うってのに憧れた。金子光晴の8年にわたる放浪に憧れた。インドに2回旅して、2回とも日本に帰る日が決まってるのが残念だった。でもこの7ヶ月はプチ放浪だったなぁ。これからもときどきエセ放浪しよう。
ミスドを出てブックオフへいって、昨日まんだらけに売ってなかった「星のローカス小山田いく)2」を購入。まだ家に帰るには早いのでジュンク堂書店に行って、「期待と回想〈下巻〉鶴見俊輔)」を座り読む。うまく言えないけれど、この人の言葉から、生きてていいんだ、それでいいんだ、っていうメッセージを私は受け取ることができる。一度も会ったことがないのに強い影響を受けてるって感じられる。いい時間を過ごした。出会ってよかったなぁ。
帰ってほどなく同居人が帰ってくるとの電話。うどん屋さんで晩ご飯にし、私はカレーうどんにする。食べてたら温かくなってきたので上着を脱ぐと、Tシャツ一枚でおなかのぜい肉が目立つ。恥ずかしいけど開き直って帰り道を急ぐ。帰って、「トリビアの泉」「水10」を見る。水10のぬるい笑いが、疲れた頭に心地よい。今日も一日が終わる。