息子のまなざし

今日は男性のみ割引の映画館があるので何としても行こうと、でも9時というのが情けないがとにかく起きる。いつものように同居猫にえさをやってミスドに行き、新聞2誌と思想の科学をちょっと読む。途中で活字が頭に入ってこなくなったので、ミスドを出て梅田の映画館に向かう。今日のお目当ては「息子のまなざし」。予告編を見たし、新聞の批評も読んだので、おおよその設定を知ったうえでの鑑賞だったけれど、これがなかなか考えさせられる映画。テーマは「少年事件の被害者遺族が加害者とどう関わることができるか」ということだと思うのだけれど、良かったのが撮り方。BGMなし、全編ハンディカメラの映像が、ポスターの宣伝文句そのままで恥ずかしいけど、つつましい、という言葉がピッタリ。抑制された感情、伝わる緊迫感。「俺はただお前と話したいだけなんだ(だったと思う)」という男性の言葉が胸をうつ。ラストが「えっ、これで終わり?」って感じだったから、その「えっ」っていうのを帰り道々考えてみたんだけれど、それは私が登場人物たちに完結する物語(それもできれば大団円)を期待していたんだよ、って気づかされた。思い出してみれば、あのラストは抑制されているけど、希望があるなってわかる。現実には絶望することも多いであろうけれど、このかすかな希望から始めよう、って言ってるような気がする。今この瞬間にもいろんなことを反芻している自分に気づく。いい映画に出会えてよかった。
映画の後、梅田まで来たので、職場復帰後にあったらいいなと思っているノートパソコンを下見に量販店へ行く。一番安いので12万。これは苦しい。同居人にはうつゆえの貧困妄想だと言われているが、やっぱりこれは高い買い物やろうと思う。中古か、通販サイトでカスタマイズして安くあげるか。
自宅付近まで戻ると4時ごろ。夕食にはまだ早いので、近所の旭屋書店で「デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)高橋哲哉)」を座り読み始める。内部と外部の決定不能性の話で、15年位前に「現代思想・別宝44号 (別冊宝島 44)別冊宝島)」でかじっていたはずの話なのにわからなくて、だんだん頭が重くなってくる。高橋哲哉がわかりやすく書こうとしていることはわかるだけに何だか悔しいが、健康にも良くないので閉じる。この本ともまた出会うこともあるだろうといつもの納得をしておく。今日は1人で夕食なので、贅沢してとんかつを食べる。満腹してその後散髪。髪を切ってもらいながら、顔をそってもらいながら満腹後の睡魔に任せてうつらうつらするのは心地よい。ちっちゃな頃から顔ぞりには快楽を感じてたことを思い出す。
帰ってきてU23サッカー「レバノンVS日本」を見る。阿部のFKも大久保のヘディングも美しかった。けっこうカタルシス。その後サッカー中継の裏でやっていた「踊るさんま御殿」を見る。教育業界の一部で「ファシリテーション(生徒さんに強制ではない主体的な参加を促すこと)」の大切さがいわれるが、間違いなく明石家さんまの司会ぶりはすばらしいファシリテーションだと思う。何だかんだで4時間テレビ漬け。ま、いいか。