災害がほんとうに襲った時(中井久夫)

mixiでweb上(http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/shin00.html)で公開されたことを知り、読む。東北関東の困難を想像しながら、また、身の丈以上の仕事をひきうけておおいに困難だったこの一年を思いだしながら、大きな感銘を受ける。たとえばこんなことばのかずかず。

有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。(パート3)
総じて、役所の中でも、規律を墨守する者と現場のニーズに応えようとする者との暗闘があった。非常にすぐれた公務員たちに私たちは陰に陽に助けられた。その働きさえ記すことのできない彼らのためにこの一行を記念碑として捧げたい。 (パート3)
われわれの精神科においては、先の病棟医長を始め、大部分のスタッフは教授である私の意見に異議を唱え、指示に不適当であると答え、代案を提出することがいつでもできる人たちであった。私はまさにそのことをかねがねひそかに誇りに思っていた。 (パート3)
私は、整理された部屋が一つでもあることは心理的に重要であることを知った。(パート4)
この時になると、私の仕事は隙間を埋めること、盲点に気づくことと、とにかく連絡の付くところにいることとなった。いわば、私は一人で「隙間産業」を営んだ。(パート4)
一般にボランティアの申し出に対して「存在してくれること」「その場にいてくれること」がボランティアの第一の意義であると私は言いつづけた。私たちだって、しょっちゅう動きまわっているわけでなく、待機していることが多い。待機しているのを「せっかく来たのにぶらぶらしている(させられている)」と不満に思われるのはお門違いである。予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる。われわれが孤立していれば、漂流ボートの食料や孤立した小部隊の弾薬と同じく、自分のスタミナ(この時期には資材はいちおう順調に届いていた)をどのように配分し「食い延ばし」たらいいかわからない。そして、われわれの頭はやはり動員可能な人員をベースにした発想しかできないようになっている。3人しかいなければ3人でできることが頭に浮ぶし、7 人なら7人でできることがというふうに(われわれの精神医学教育はリアリズムを基礎とし、実現不可能な願望思考をしないように訓練してきたものであった)。人が増えればそれだけ分、あたかも高地に移ったかのように見えてくる問題の水平線が広大となる。新しく問題が見えてくる。新しい問題が発生した時にも対応できるようになる。そして実際、日々、問題は新しくなる。これは事態の変化によるものでもあると同時に、われわれが発生する問題をとにもかくにも解決して行っている場合に特にそうなるのである。 (パート5)
私は行き帰りの他は街も見ず、避難所も見ていない。酸鼻な光景を見ることは、指揮に当たる者の判断を情緒的にする。私がそうならない自信はなかった。動かされやすい私を自覚していた。(パート6)
2月6日、加賀乙彦氏は一ボランティアとして大学精神科に来られた。氏は私の要請に応えて多量の花を背負い子にかついでやってこられた。黄色を主体とするチューリップなどの花々は19箇所の一般科ナース・ステーション前に漏れなくくばられ、患者にもナースにも好評であった。暖房のない病棟を物理的にあたためることは誰にもできない相談である。花は心理的にあたためる工夫の一つであった。 (パート7)
やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知acknowledgeされ評価appreciateされる必要があるのだ。(パート7)
このころになると、訪問する精神科医は、一輪の花を各避難所に届けることができるようになっていた。手ぶらで訪れるよりもずっと入ってゆきやすいと皆は言った。東京都下・青木病院からのH医師の面接は特に喜ばれ、逆に被災者からぜひといってお菓子や果物を「また貰っちゃった」と言って持ちかえってきたが、これは避難所に物が余りだしたわけでは決してない。感謝の気持ちを全財産をなくした人はとにかく表したかったのである。一輪の花を手向けるように── 「お地蔵様へのお供え」というほうが当たっていようか。実に多くの人が、この状況にあって「ただでものをもらう」ことに抵抗を感じていた。初期にはそのためのためらいがあった。かなりの神戸市民は政府の援助を争って受けたのではない。心理的抵抗を乗り越えてようやく受けたのであることを彼ら彼女らのために言っておきたい。(パート8)
 この3週間、私はたしかに「共同体感情」というものが手に触れうる具体物であることを味わった。47人が皆救われた病院の焼け跡のそばに半身をあぶられたオリーヴの木があった。私はその一枝なりとも取りたかった。しかし兵庫警察署のごく近くで警官たちがいっぱいいた。私はいささかためらい、警官と眼が合った。「ここで病人が皆助かったのです、記念にと思って」と言うと、彼らはしみじみとうなずいた。近所の人が集まってきた。「この木のおかげで私の家は焼けなかったのですよ」と狭い小路からおばさんが出てきて言った。その隣の倒壊した家屋の前にいた初老の男が「たんと持っていきなよ。あそこでは18人死んだのだよ」と病院の向こう側の瓦礫を指さした。秘書のHさんはオリーヴの産地小豆島農業改良指導センターに問い合わせて、挿し木を生かす方法を教わった。「オリーヴは強い木だが5センチほどの太さの枝が必要だ」と聞いて、私と彼女は翌朝脚立(きゃたつ)と鋸とをもって出撃した。オリーヴの枝はしたたかに水分を含んでいて、そのか細い枝葉からは想像もつかないほど強靱であった。
 私たちはたくさんのオリーヴの枝をたばねて大通りをひきずって歩いた。見とがめる者はいなかった。むろん警官たちも。やはりすこし退行していた私は顔色の悪い初老の女性に声をかけた。全財産を失ったという返事だった。「何もしてあげられないけれどこのオリーヴの木だって生き残ったのですよ」とふだんなら吐かないであろう感傷的な言葉を私はかけて一枝を差し出した。
 このような「共同体感情」が永続しないことは誰しもひそかに感じている。先の運転手は「いつまでもこうだと仕事をしやすいのだけれど、そう続くもんではないんだろうなあ、どんな形で終わってゆくのだろう」と言った。それこそ、私の問題であり、私の中に住む精神科医の問題であった。(パート8)

今こそ公開したいと感じた人がいて、瞬時に快諾した著者がいて、そのことをとてもうれしく思う。