悼詞鶴見俊輔)』
鶴見俊輔がこれまでに書いた追悼文集。毎晩、少しずつ読み進めて、終わりまできた。ひとりひとりに対するまっすぐな敬意が伝わる。ある人について書くときに、何を書き、何を書かないかについて、筆者の中におそらくは強いきめごとがあるのだろう、とあとがきからも推察する。「頑なな原則*1」が、豊かなものをもたらしていると感じる。

私は孤独であると思う。それが幻想であることが、黒川創のあつめたこの本を読むとよくわかる。これほど多くの人、そのひとりひとりからさずかったものがある。ここに登場する人物よりもさらに多くの人からさずけられたものがある。そのおおかたはなくなった。
今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。死者生者まざりあって心をゆききしている。
しかし、この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、八六年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。(p.409)

どの文章も味わいを感じるのだが、大学のときにその話をきいていた柴地さんのことが紹介されている。

柴地則行は、古神道の教団から土地を借りて、家*2をたてるワーク・キャンプの工事をおこした。近所から反対が出て、工事の現場をかこまれた。すると、「皆さんの同意を得なければ、この宿舎の建設はしません」と言って、途中まで積んであったブロックを、みんなの目の前でくずした。あきらめたわけではなく、夏休みごとに男女数人でつれだって、反対派の家々に、ハンセン病は新薬プロミンでなおるようになったので、この人々から伝染することはないという西占貢(京大医学部教授)の証明をみせて、説得をつづけた。もはや反対はなくなったと見て、一挙に家をたてた。このように数歩退いて、やがて盛りかえす姿勢が、この学生たちにはあった。
(「柴地則行・那須正尚―さかさ屏風(P.245)」)

この家を建てるときの資金をどうするか、という話し合いの際、何人かが南洋の漁船に乗って調達する、という意見が出たときに、「一人の百万円よりも百万人の一円」という話になったときく。大学生のときにこの団体にかかわって、「まずからだをうごかす」「言いだしっぺがやる」といったいくつかの原則を、いまでも思い出せる。
最後の鶴見良行鶴見和子、鶴見愛子(母)の悼詞がつよい印象を残す。

良行がなくなった通夜で、彼の同僚がこんなことを言った。
「某のところには、秀才が集まり、やがてはなれていく。
鶴見良行のところには鈍才があつまり、そのひとりひとりがやがて何かの道を見つける。」
こんな大胆なことを大学教授が言ってよいのかと思い、通夜だからこそ、心の底にあるものをはっきり言えるのだろうとも思った。
東京ではじめていた良行学校について、また京都に移ってからの龍谷大学教授としての彼の指導の仕方についての、簡潔な要約である。
(「鶴見良行―この道(P.387)」)

死ぬ前に姉は私に言った。
「あなたは一生私を馬鹿にしていたんでしょう」
私は答えなかった。これから死んでゆく人に、いやそんなことはありません、尊敬していました、とおざなりのことを言うことはできない。
(中略)
私の家は、幾つかの部分にわかれる。
父と姉は成績一番の人たちである。
私は、成績は小学校のときにビリから六番である。
私はビリにはなれなかったが、心のむきはビリに向かい、むしろビリよりも教室のらち外にむかっていた。
こういう位置の生徒は、優等生をバカにする傾向を心中にそだてる。
(「鶴見和子―姉について(P.392-3)」)

どんな偉そうに見える人でも一皮むけばみんな偽善者だという思想に、私は、どんな時にもくみすることができない。それは、どういう角度から接しても偽善者でなかった母の姿をそばで見ていて、その偽善者でないことに閉口して育ったためだ。
女は駄目だというもう一つの普通にきく考え方にも、私はくみすることができない。それは、私が、生れ落ちた時からおそろしい女に接して来たからだ。
他の人にとってもそうかもしれないが、私にとっては、人間の問題というのは、母親の問題だった。母とのつきあいに悩んだので、人生に絶望したといっていい。しかし、どんなに悩んでいた時でも、母が自分を愛していることに確信をもっていた。自分は、一生分の愛情を受けたと思っている。
(「鶴見愛子―私の母(P.407)」)

あと、個人的なことだが、高校のときに教わった松原先生のことが書かれていて、何となくうれしく読む。
この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)西原理恵子)』
Kさんに借りて読む。感銘を受ける。お金があること、ないことがもたらすこと。働いてお金を得ること。お金とつきあうこと。自分の子ども時代のささやかな経験、見聞とひびきあう。自分はたまたま幸運な子ども期を送って、それがたまたまだったということを自覚して、今、子どもたちとつきあいたい、と思う。