鶴見俊輔 (KAWADE道の手帖)
中井久夫との対談、黒川創の論考をはじめ、どの文も興味深い。なかでも「退行計画」。

自分を棺桶にたとえれば、たががこすれてパネルははじけ、桶の内側の土と外側の土とのあいだにそれほどの差別あると、今では信じられなくなった。
自我の容器が、すりきれてゆく。それと同時に、あれほど死ぬのが恐ろしかったことも、今では夢のようだ。
はじまりがわからず、おわりもわからないという自分の歴史への恐怖は、自分自身の影が薄くなることで、恐怖そのものも薄らいできた。
自分がなければならないという理由は、薄い。自分が消えてゆくということへの恐怖も、薄い。
(中略)
自分は自分のもぬけのからで、だからこそ今、自分の上にたってふんだりけったりすることもできるのだが、そのふんだりけったりも、べつにもうそんなにしたくも、ないのだ。(p.56)

てっきり老境にさしかかった近年の文章かと思い、自分も老いたときにかく感じられるといいなあ、と読み終え、最後にこの文章が46歳のときのものと知り、おどろく。あともうひとつ、1960年の安保闘争のさなかに書かれた「いくつもの太鼓のあいだにもっと見事な調和を」の冒頭に引用されるヘンリー・ソローのことば。

足なみの合わぬ人をとがめるな。かれは、あなたのきいてるとのはべつのもっと見事な太鼓に足なみをあわせているのかもしれないのだ。(p.166)

自分が多感な時期に、「思想の科学」をたまたま手にとり、鶴見俊輔の文章に出会えたことがほんとうに幸せなことに思える。