落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)堀井憲一郎)』
さらっと、楽しく読む。200年前のこの社会には、今とは明らかに感覚のちがう生き方があった、と思うと日々が少し、楽になる。

大束に言ってしまえば、近代より前は、人は好き嫌いで生きていけなかった。好き嫌いは前面に押し出されることはなく、また好き嫌いで人生を決めてはいなかったんだろう。それはそれでひとつの見識である。人が人であるかぎり、さほどの横幅を取って生きていけるわけではない。欲張ったところで、自分以上の横幅を取って人生を歩めるわけではない。(p.157-8)

物語になるような恋は、大金持ちか、色里にしかない。それが江戸の昔の恋である。金とひまがなければ、色恋に専念していられないってことだろう。恋愛は人生にかかわりがなく、金になるものでもなく、あったほうがいいけどなくても生きていけるもので、それは今だって同じだけれど、でもその意識はもっと徹底していた。初恋はいつですか、という設問がふつうにできる世の中からは、江戸の恋は遠い。(p.165)

左利きも個性だから、左を使えばいいだろう、というのは、人が自分の横幅を主張しても、餓死する人があまりいなくなった社会の規範である。それはそれでいいことだろう。でもその感覚で歴史を振り返ってもしかたがない。みんなが自分の何かを削って集団に分け与えないと、集団ごと滅亡してしまいそうな時代は、人は大きなルールを決めて、それを守る。守れない連中は端っこのほうに追いやる。それが近代以前の社会である。(p.182-3)

今はたぶん、それなりにくらしやすい時代なのであって、ただ、くらしよい時代なりのほどほどの自覚と節度というものが、必要なのだと思う。